大阪地方裁判所 昭和41年(ワ)1049号 判決 1971年12月20日
原告 水谷吉郎
右訴訟代理人弁護士 木崎為之
同 木崎良平
同 幸節静彦
被告 住友金属工業株式会社
右代表者代表取締役 日向方斉
<ほか八名>
以上被告ら訴訟代理人弁護士 梶谷玄
板井一瓏
右補佐人弁理士 西田信直
<ほか二名>
主文
原告の請求を棄却する
訴訟費用は原告の負担とする
事実
≪省略≫
理由
第一、原告が昭和三一年六月四日出願同三二年一一月二六日(昭和三二―九八五二)公告、同三三年六月一〇日登録になった特許第二八二八三六号、名称「熱風に重油水蒸気を添加する銑鉄製造用高炉」の特許権者であって、その特許請求の範囲の記載が、
「骸炭高炉の送風支管に重油バーナーを取付け水蒸気圧縮空気に依り重油を噴霧状或は瓦斯状として熱風に混和し羽口より吹込み、発生する水性瓦斯、水素瓦斯並にCO瓦斯により鉱石を還元するようにしたことを特徴とする高炉」
であることは当事者間に争いがない。
第二、当事者双方の主張を要約するとつぎの如くなる。
原告は被告らにおいて共同して本件特許発明を実施し、本件特許権を侵害している旨主張するのに対し、被告らはこれを否認し、かりに被告ら実施の技術が本件特許権の技術的範囲に属するとしても、原告は昭和三七年四月三〇日付原告と富士製鉄間に作成せられた乙第八号証の覚書により、富士製鉄に対し本件特許につき専用実施権の設定を許諾し、同会社は同会社のほか八幡製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属工業、神戸製鋼所、尼崎製鉄、中山製鋼所、大阪製鋼、日新製鋼、東海製鉄、矢作製鉄の各被告会社からなるBFIグループ内の他社に通常実施権の設定を許諾すると共にその対価として右覚書に記載の三〇〇万円を受領したのであり、その後東海製鉄は富士製鉄に吸収合併され、八幡製鉄は新日本製鉄と商号を変更して富士製鉄を吸収合併し、それぞれ合併による地位の承継がなされたから、原告の被告らに対する本件特許権の権利侵害の主張は理由がないと抗弁する。
ところで右覚書に被告ら主張の如く本件特許権につき実施権設定の許諾に関する記載があること、原告が三〇〇万円を富士製鉄から受領したこと、右合併に関する被告らの主張等は原告の認めるところであるが、原告は右実施権設定を許諾した事実、三〇〇万円がその対価であることを否認し、右覚書について、つぎのように主張する。
「右覚書により当事者間で合意した内容は、あくまで被告らBFIグループにおいて本件特許発明はそのまま実施しないことを前提とし、そのうえで、原告は被告ら代理人矢葺明に対し、被告らが実施せんとするポンペイ社の技術が本件特許発明と牴触する疑いを生じても、それがポンペイ社の技術である限りは、これについて原告は被告に対し本件特許権に基づく差止請求その他権利侵害の主張をしないことを約したのである。
その際被告らから原告に三〇〇万円交付されたが、右金員は被告らにおいて原告特許に対し敬意を表する意味で原告に贈呈されたものであり、金一封の趣旨に外ならない。しかるに、右覚書に原告は被告らに対し本件特許権につき実施許諾をなし、被告はその対価として三〇〇万円支払う」旨全く事実と相違した記載がなされているが、右記載は被告ら会社が右金員を支出するための名目に過ぎず、真実覚書記載の合意がなされたのではない。もし、原告がBFIグループを構成する被告らに対し、真実本件特許につき実施許諾をするのであれば、僅か三〇〇万円程度の金額で原告が承諾する筈がない。このことは、覚書作成の前年である昭和三六年八月頃矢葺から被告らグループが本件特許発明を使用し度き旨申入れを受けた際、原告は銑鉄トン当り一〇円(年間約三億円となる)の実施料でなければ承諾できない旨主張した事実また覚書作成当時の本件特許権の譲渡価額は二四〇億円が相当であるとの堤鑑定人の鑑定の結果に徴しても明らかなところである。したがって、被告らが形式的にはポンペイ社の技術導入という名を藉っていても、その実、本件特許発明を実施するときは、前記覚書はなんら被告ら主張の抗弁事実を証する資料たり得ないものである。それゆえ、かりに右覚書書に原告が調印したことにより原告が同記載の実施権設定の許諾をしたことになるならば、右意思表示は通謀虚偽表示あるいは要素の錯誤により無効であり、しからずとするも被告らは明らかに原告を欺罔して覚書に調印せしめたものであるから、原告は右調印による意思表示を詐欺に因るものとして本訴において取消す。」
第三、そこで、金三〇〇万円が本件覚書作成当時、同記載の実施権設定の対価としては、原告主張の如く桁違いの著しく不相当のものであったかどうか検討することにする。
一、≪証拠省略≫によると、同鑑定人は、「(1)本件特許第二四二八三六号発明の実施料は昭和三七年四月頃当時銑鉄生産量一屯当り最低金一七二円または銑鉄製造原価の一、〇四二%とするのが相当である。(2)上記特許権の譲渡価額は昭和三七年四月当時および現在において最低金二四〇億円とするのが相当である」と鑑定している。その鑑定理由を要約するとつぎの如くである。
『本件特許発明は、高炉の生産性の向上、即ち一日当り出銑量の増加と銑鉄屯当りコークス使用量(コークス比)の、低減を技術的課題とするものであり、その解決たる技術思想は、「ガス化または霧化された重油と水蒸気とを任意の相対的比率で含有させた熱風をハース上端に配設された羽口を介し高炉内に吹込む」ということにある。これは本件特許発明の内容中主たる構成要件であり、「バーナーの装着位置」、「水蒸気添加方式」、「重油添加方式」についての技術手段は従たる構成要件とみるべきである。したがって、本件特許発明の技術的範囲は、右主たる構成要件を具えている限り、右従たる構成要件については特許請求の範囲に記載の事項と均等な技術で置換したものにも及ぶと解すべきである。
本件特許発明を実施すべき高炉自体は従来のものがそのまま使用でき、また実際にもそのまま使用できた。被告らは遅くとも昭和三七年度以降本件特許発明を実施し、重油霧化装置、送風の添加装置、水蒸気添加装置という附帯的手段につき研究を続け、これを完成した。そこで本件特許発明について諸般の事情を勘案し、実施料等についての斯界の権威者の見解に照らして考えると、特許権者の取得すべき対価即ち利益還元額は、一応企業者の増加収益金の少くとも四分の一と認められるが、本件のような算定には不可避な計算誤差が含まれる可能性があるので、これを考慮に入れて更に一〇%低減した約五分の一が相当であると認められる。よって、社団法人日本鉄鋼協会発行「鉄と鋼」一九六五年五一巻三号創立五〇周年記念特集号三〇七頁以下に登載の資料により昭和三七年度から昭和四二年度までの間の被告ら高炉銑鉄生産量に対する本件発明の寄与率即ち増加利益還元額を計算すると、銑鉄トン当りの増加収益金は平均七六二円、本件特許権者の取得すべき利益還元額は合計二四〇億円となるから、本件特許の譲渡価額は昭和三七年四月当時及現在において右二四〇億円と認めるのが相当である』と。
すなわち、堤鑑定は本件特許発明の技術的範囲を前記の如く解し、なおこの特許発明はそれだけで直ちに大型高炉に実施しうるものであり、且つ被告らは遅くとも昭和三七年以降本件特許発明を実施して増加収益を得て来たとの事実を認定のうえこれを基礎としてなされたものである。
二、そこで、堤鑑定人の右認定事実につき更に検討する。
(一) まず、本件特許出願時(昭和三一年六月四日)における技術状況について考察する。
本件特許出願前に、高炉操業技術として、(イ)高炉に重油を含む燃料油を吹込む(燃料油吹込み)、(ロ)水蒸気を送風中に添加する(調湿送風)、(ハ)酸素を送風中に添加する(酸素富化送風)等が有利であるとの各技術思想が知られていたことは当事者間に争いがなく、鑑定人三本木貢治作成鑑定書、鑑定人堤英三郎作成鑑定書各添付の引用資料によると、右の技術に関し、つぎの如く各種の特許発明あるいは文献が存したことが認められる。
(イ) 燃料油吹込み技術につき
一八三八年英国特許第七七二七号
一九三六(昭一一)Stahl und Eisen S. 1177―1179
一九二七年(昭二)Archiv fr das Eisenhttenwesen S. 30
昭和二三年発行和田亀吉著、実際製銑法
一九五二年(昭二七年)The Iron and Coal Trades Review p.430―432
米国特許第二六九〇、三三三号
米国特許第二七二七八一六号等
(ロ) 調湿送風につき
和田亀吉、実際製銑法
産業図書発行、溶鉱炉製銑法
米国特許第二五九三二五七号
米国特許第二七一五五七五号
ドイツ特許第八九九六五九号等
(ハ) 酸素富化送風につき
和田亀吉、実際製銑法
米国特許第二五六四二三三号
米国特許第二六〇五一八〇号
ドイツ特許第八二三七四一号等
以上の文献あるいは特許資料によると、高炉による製銑技術について、重油等液体燃料を高炉に噴霧状またはガス状として吹き込むことによりコークス比を減少させること、高炉に液体燃料を吹き込み、燃焼させるため空気アトマイズバーナーを使用すること。液体燃料を吹き込むときは熱補償が必要であること、水蒸気を熱風に混和して送入すると水が分解し、これにより発生する水性ガス等により銑鉱石を還元しうることなどが知られその基本的原理はほぼ明らかにされていたが、高炉における操業の実際については研究途上にあり資料が十分ではなかったようである。
(二) 本件特許発明の開示の程度についてみる。本件特許発明は、熱風に重油水蒸気を添加する銑鉄製造用高炉に関するものであるが、その特許請求の範囲は前記第一に記載のとおりであり、成立に争いない甲第一号証(本件特許公報)によると、発明の詳細なる説明の項に、鉄管式熱風炉を有する能力五〇kg(五〇噸の誤記と推認される)の小型高炉に於て、ダライ粉五〇%鉄鉱石五〇%を装入し、熱風温度四〇〇度Cとしてなされた実験の結果が、「(イ)熱風のみの場合、(ロ)重油一時間当り一五〇kg加熱蒸気少量を熱風に添加した場合、(ハ)重油一時間当り一五〇kg加熱蒸気の少量、酸素を熱風の一〇%を併用添加した場合、(ニ)加熱蒸気の少量と酸素を熱風の一〇%を添加した場合」について示してあるが、本件発明の大型高炉における実施については、その設備、各種操業条件等に関しなんら言及されていない。
(三) そこで本件特許発明の技術的範囲について考察する。前記特許出願時における技術状況のうえに立ち、本件特許の特許請求の範囲の記載その他本件特許公報全体の記載に徴すると、本件特許発明は、(イ)骸炭高炉の送風支管に重油バアナーを取り付けること、(ロ)水蒸気、圧縮空気に依り重油を噴霧状或は瓦斯状として熱風に混和して、これを羽口より吹込むこと、の二つの事項を必須要件とするものであり、特許請求の範囲の記載中「発生する水性瓦斯、水素瓦斯並にCO瓦斯により鉱石を還元するようにした」との記載部分は、本件特許発明を実施する場合の作用効果を意味するものと解すべきである。
したがって、本件特許発明の技術的範囲は、右認定の二つの必須要件に基づいて定めるべきであって、右必須要件の具体的構成を離れ、あるいはこれを度外視して、右の作用効果を奏する重油、水蒸気、熱風等を併用する複合送風の技術はすべて本件特許発明の技術的範囲に含まれると解することはできない。
原告は、本件特許発明は重油を水蒸気、圧縮空気により噴霧状或は瓦斯状として熱風に混和して高炉に吹込むことを内容とするもので、重油添加送風、調湿送風、酸素富化送風という各種の技術のすべてを綜合して、採用した点に高炉史上画期的な意義があり、その発明の核心は、特許請求の範囲の後段に記載してある如く、「発生する水性瓦斯、水素瓦斯並にCO瓦斯により鉱石を還元するようにする」点にある旨主張し、原告本人はその旨供述しているが、前に認定した本件特許の出願時における技術状況に於ては、大型高炉において、操業上の危険を伴わずに、いかに能率よく、経済的に複合送風の技術を用いるかという具体的操業条件等の方法を見出すことが当業者の課題とされていたと推察されるのである。
原告自身も同人作成の甲第九号証(被告乙第一三号証の一に対する原告の説明書と題する書面)の第一章(七)において、「比較的簡単と考えられる骸炭高炉においてさえも上述の如く非常に複雑で近代科学を以てしても解明できないといわれている。この骸炭高炉に正体不明の重油を吹き込み、水蒸気を添加し、又高温送風酸素富化送風した場合、更に複雑なる化学反応が起り、骸炭高炉以上に複雑で到底今の科学を以てしても解明出来ないのは当然である。従って操業にあたっては多年の熟練と経験的判断によって行われ其等の操業のデーターを整理し、検討して一歩一歩と研究し完成に近づける努力がなされている次第である。即ち重油吹き込み水蒸気添加の高炉の炉内反応は近代科学を以ってしても未だに解消されない点が多い事は何人も認めている次第である云々」と述べているのであって、これによっても、水性瓦斯、水素瓦斯並にCO瓦斯により鉱石を還元するよう複合送風の技術を用いるとの表現だけでは、出願時当業者の常識によりその具体的方法を把握することはできないと考えられる。
以上の点を考慮すると、本件特許請求の範囲の記載中、「骸炭高炉の送風支管に重油バアナーを取付け、水蒸気、圧縮空気に依り重油を噴霧状或は瓦斯状として熱風に混和し羽口より吹込み」との事項が示す「バーナーの装着位置」「水蒸気添加方式」「重油添加方式」に関する点を従たる発明構成要件あるいは恰も一実施例の如く解することはできないのであって、本件特許発明は、複合送風の長所たる効果を得るため、特許請求の範囲に記載の前記(イ)(ロ)の事項を具体的解決方法として選んだところにあると認めるべきである。
堤鑑定人の鑑定は右と異なるものであって、採用することができない。
(四) その後の本件覚書作成時における技術状況について考察する。鑑定人三本木貢治作成鑑定書並に成立に争いない乙第一一号証の二に添付の第一四号証(社団法人日本鉄鋼協会発行「鉄と鋼」四八巻一一号一二二五頁以下日本鉄鋼協会第六四回講演大要同第一五号証(同雑誌四九巻九号)一二〇七頁以下、製鉄部会報告書、製銑技術の進歩等によると、高炉に天然ガス、液体燃料を吹込む技術の本格的研究は本件特許出願がなされた翌年である昭和三二年(一九五七年)に入ってからであり、その後急速に技術の進歩がみられた事実が認められる。すなわち、ヨーロッパにおいては、ベルギーかC.N.R.Mが中心となり一九五七年(昭和三二年)研究を開始し、Ligeの国際共同試験炉(Cockerill-Qugre製鉄所の三五〇t/日の高炉で本格的試験がなされ、フランスではIRSID研究所とPOMPEY製鉄所が中心となり一九五九年(昭三四)POMPEY製鉄所NO3高炉で軽油吹込の本格的研究に入り、一九六〇年(昭三五)には重油吹込を実施し成功した。ドイツでは、ドイツ鉄鋼協会が中心となり、一九六二年(昭三七)初頭にPhoenix Rheinrohr社が重油吹込について研究を開始した。イタリーでは Jtalsider社のCornigliano製鉄所がフランスポンペイ社との技術提携により一九六一年(昭三六)初頭より一二〇〇t/日の高炉に重油吹込を行っていた。イギリスではShell石油会社及びBataofsche Petroleum Ma-utschappy社が開発研究をしており、数基の高炉で重油を吹込んでいた。つぎにアメリカでは、一九五八年(昭三三)頃より本格的吹込試験を行い、一九六〇年(昭三五)以来AIMEの大会で試験結果の討議情報交換が行われたが、天然ガスが安価なのでその吹込が盛に行われていた。ソ連では一九六〇年(昭三五)になって、Urals製鉄所において重油吹込の実施が開始された。そして一九六一年(昭三六)春我国鉄鋼各社は調査団を欧州米国に派遣し調査の結果、フランスポンペイ社の技術が一番研究歴を持ち、大型炉における実積を持っていたので、その技術を導入したのであるが、当時ポンペイ社の技術は、バーナーの設計、霧化方式(アトマイス)重油吹込量の自動制卸、炉の操業、理論的検討結果等について十分なノーハウを持っていた。
(五) 堤鑑定人の鑑定の結果は、被告ら会社は日本鉄鋼協会発行「鉄と鋼」等の記載をしんしゃくし、昭和三七年以降本件特許発明を実施しているとの認定に立つものであるが、それは、同鑑定人が本件特許発明の内容を前記の如く解したうえでの認定であることは同鑑定人の鑑定書の記載によって明らかである。しかし、堤鑑定人の本件特許発明の構成要件についての見解が採用し難いものであることは既に述べたとおりである。被告らが本件特許発明の構成要件をそのまま実施していると断定し得べき証拠は本件にない。
また同鑑定人の鑑定は、本件発明がそれだけで直ちに大型高炉に工業的に実施しうべきものであったとの認定のもとになされていると解されるのであるが、既に認定判示したところにより是認し難いところである。
三、以上の認定事実ならびに鑑定人三本木貢治の鑑定の結果を比照すると、堤鑑定人の前記鑑定人の結果はたやすく採用することができない。
四、その他、金三〇〇万円が本件覚書書作成当時、同記載の実施権設定の対価として桁違いの著しく不相当のものであったと認むべき証拠はない。
第四、そこで、つぎに、右覚書の作成経過について検討する。
≪証拠省略≫を綜合するとつぎの事実が認められる。
昭和三二年一一月二六日本件特許出願が公告になるや、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の三被告が異議の申立をしたので、原告は、右三社にそれぞれ本件特許につき無償で実施権の設定をすることを約して異議申立を取り下げて貰ったが、それは異議が取下げられ、本件特許出願が早く登録になれば、直ちに右三社を除く他の被告各社に対して本件特許につき実施権の設定をなし、これにより相当の実施料が得られるものと期待しての措置であった。ところが、昭和三六年春頃、わが国一流の製鉄業者である被告ら各社は高炉に重油を吹込む技術について個々的に外国と提携し、その技術を導入せんとする動きがあった。その後被告ら各社は一体となり、外国の一社から技術を導入しようとの話しがもち上り、被告ら十二社からなる前記BFIグループが組織され、各社から代表が選出され、準備委員会が設けられて調査研究がなされた結果、フランスのポンペイ社からその技術を導入することに話しが纒り、約一億円を投じてその技術を導入した。ところが、その準備段階の頃同年七月開催された第一回準備委員会で、ポンペイ社の技術は重油吹込に関する日本における本件特許との間に抵触問題が生じないかとの意見が提出された。委員会においては、ポンペイ社の技術は重油のたらし込みに関するノーハウであり、本件特許は重油を水蒸気と圧縮空気で霧化して羽口から吹込む技術に関するものであって、両者の技術間に牴触関係は生じないとの見解が多数を占めていたが、ポンペイ社の技術について詳細なところは判明していなかったので、本件特許との間に何ら紛争を生じることはないとは断定し兼ねる事情にあった。そこで、協議の末、後日紛争が生じるのを避けるため、この際むしろBFIグループにおいて本件特許権を買取って置くに如かずとの結論に落付き、その買取交渉を八幡製鉄の当時の特許課長矢葺明に委嘱することになった。
矢葺は早速翌八月八幡製鉄に原告を招致し、BFIグループにおいて本件特許発明を使用し度き旨を伝え交渉に入った。ところが、矢葺はその後同年一一月に至り、原告に対しBFIグループはフランスのポンペイ社の技術を導入して実施することになったことを話し、本件特許権はポンペイ社の技術と牴触問題の生じるのを避けるため買取って置き度い旨申し入れた。原告は矢葺から右の話しを聞き、被告らが一体となりポンペイ社の技術を導入するとの事実が真実であれば、本件特許発明はついに実施されることなく、日の目を見ずに了ることになるわけで、当てにしていた実施料を貰う途も完全に閉されることになると思い、愕然となった。矢葺は本件特許権買取りの対価として二〇〇万円を提案した。原告は将来もし被告らが本件特許発明を実施することになった際更めて対価について協議してくれるならば矢葺の右提案を了承してよい旨述べたので、矢葺はBFIグループ委員会に諮ったところ、同委員会はそのような条件をつけずに対価三〇〇万円にして本件特許を買取るよう指示した。そこで矢葺は昭和三七年一月頃その旨原告に伝えたところ、原告はそれでは五〇〇万円に増額して貰い度き旨申し出たが容れられず、結局三〇〇万円で原告は承諾したが、本件特許の権利者を原告とする建前は残して置いて貰い度いと申出たので、原告から富士製鉄に専用実施権の設定手続をなし、同会社は他の被告会社に本件特許の実施許諾をする形式をとることに了解が成立した。そこで、BFIグループの委員前田直昭は昭和三七年四月下旬頃、「原告は富士製鉄に対し本件特許権につき専用実施権の設定許諾をする(第一条)。原告は富士製鉄がBFIグループ内各社に限り通常実施権の許諾をすることを承諾する(第二条)。富士製鉄は原告に対し右専用及び通常実施権全部の対価として金三〇〇万円を覚書締結後直ちに支払う(第四条)」旨その他の条項を記載した昭和三七年四月三〇日付覚書および登録等に必要な書類をあらかじめ原告に対し送付した。よって、原告は右書類を携えて上京し、なんら異議をとどめずこれらの必要書類に調印して前田直昭に交付すると共に、「特許第二四二八三六号の専用及通常実施権全部の対価三〇〇万円の金員を妻水谷悦子名義三菱銀行府中支店普通預金通帳に振込んで貰い度き」旨自書した覚書日附より二日前なる四月二八日付富士製鉄宛委任状を差し入れた。その後富士製鉄はその他のBFIグループに属する他の被告会社に対し通常実施権設定手続をなし、それぞれその旨登録された。
≪証拠判断省略≫
原告は昭和三六年八月頃矢葺に対し本件特許の使用を望むならば少くとも銑鉄一トン当り(原価一八、〇〇〇円)につき一〇円(年間総額約三億円となる)の対価を支払われ度き旨述べたと主張し、原告本人はその旨供述しているけれども、右供述は証人矢葺明の証言ならびに前記認定事実に照らして措信し難く、他に右主張事実を認むべき証拠はない。
第五、本件覚書は虚偽表示であるとの原告の主張について。
原告は、右覚書は被告らが原告に対し贈る三〇〇万円支出の名目をつくるための形式として作成したに過ぎず、真実右覚書記載の契約をなす意思はなかったから、右覚書記載内容は相手方と通じてなした虚偽表示である旨主張し、原告本人は右主張にそう供述をしている。しかし、右供述は覚書作成経過についての前記認定事実に照らして到底採用できないところであり、他に右原告主張事実を肯認しうべき証拠はない。
原告が覚書に調印の際に、もし本件特許の譲渡価額ないし専用実施権設定の対価につき三〇〇万円とは桁違いの高額を踏んで居り三〇〇万円程度の対価では本件特許権につき専用実施権の設定の許諾等をする意思が全くなかったとするならば、覚書の記載は原告の意思と真反対のものであることは一見明瞭、何人も誤解する余地のないものであるから、断然調印を拒否すべきものであるのに、原告は事前に覚書の送付を受けながら何らの異議を留めず、覚書記載の趣旨の三〇〇万円の受領のため妻名義の通帳に振込方を依頼して覚書に調印したものであるところからみると、原告は覚書記載内容は十分了承のうえで調印したものと認めるの外ない。覚書に原告が調印し、その契約の効力が生じた暁には、覚書の記載からして、名目上は原告が特許権者ではあっても実施権は完全に被告らグループが取得するのであるから、もし原告が三〇〇万円を覚書に記載の実施権設定の正当な対価ではないと思っていたなら、このような覚書の作成を三〇〇万円支出の方便のみに利用することを承認するなど、通常人の常識では考えられないことである。
よって、原告の右虚偽表示の主張は採用できない。
第六、原告が右覚書に調印したのは、被告ら代理人矢葺明の欺罔行為によるものであるとの原告の主張について。
原告は、被告ら代理人矢葺が原告に対し、「被告らBFIグループは本件特許の実施をする意思を有しながら実施はしないと言明のうえ、被告らBFIグループがポンペイ式技術を導入してこれを実施するのに対し、原告は本件特許権に基いて差止等の挙に出でないことを約するため覚書を作成するものである」旨申し欺いたので、原告はこれに調印したのであると主張するのであるが、矢葺が原告に対し右詐術を弄したと認むべき証拠はない。たとえ、原告としては覚書調印に至るまでの交渉の経過からして、BFIグループがポンペイ社からその技術を導入して実施することになった以上、も早や本件特許を実施するの要なく、覚書は単にBFIグループのポンペイ式技術の実施に対して原告は傍観することを約する趣旨で作られるものであると解していたとしても、右覚書には原告が富士製鉄に本件特許権につき専用実施権を設定し、同会社は更にBFIグループ内各社に限り通常実施権の許諾をすることを原告は承諾する旨その他これを中心とする各種の取極が明瞭に記載されているのであって、BFIグループに属する会社は右により取得した実施権の行使はしないことを原告に約する等の記載は一言もない。前に認定した事実によれば、原告は調印前覚書の内容を了解するに十分な余裕が与えられていたと認められ原告本人の供述によると、原告は他に十件許り特許出願をした経験者であることが認められるので、特許発明の実施許諾が何を意味するか了解できなかった筈はないと考えられる。そうすると、原告の右詐欺の主張は独自の解釈というの外なく採用することはできない。
第七、右覚書による原告の意思表示は錯誤により無効であるとの原告の主張について。
原告は、覚書を作成した真意は被告らBFIグループがポンペイ社の技術を実施するについて、原告は本件特許に基いて差止等の挙に出でないというにあり、被告らは本件特許発明は現実には実施しないことが覚書作成にあたり基礎たる前提事実になっていたのであって、もし右前提事実が否定せられるならば、原告は僅か三〇〇万円の著しく不相当な対価で被告らに対し本件特許発明の実施許諾をする筈がないから、これを許諾する旨記載された覚書に対する原告の調印は意思と表示との間にそごがあり錯誤により無効であると主張するけれども、三〇〇万円が覚書記載の実施権設定の対価として調印当時著しく不相当のものと認められないことについては既に詳しく判示したところであり、原告は本件覚書の内容を十分了知したうえこれに調印したと認めるべきことについても前に認定したとおりである。そうすると、原告の覚書に対する調印が原告主張の如く錯誤に出たものであるとは到底認めることができない。
すなわち、前に認定した本件覚書作成に至るまでの経過によると、BFIを構成する被告らは、ポンペイ社の技術を導入して実施することになったので、その必要性から言えば、被告らのポンペイ社の技術の実施に対して原告に本件特許権に基づく差止等の挙に出でないことを約せしめる程度の約束で当面の目的を達することができたわけであるが、その具体的方法としては、右の目的を越え原告の本件特許権を買取るという根本的解決を選び、その交渉が進められたのであり、原告もまたその交渉が買取交渉であることを承知のうえ、五〇〇万円の対価を要求したが容れられず、結局三〇〇万円で一応承諾をしたのであるが、被告らは原告の希望を容れ、対価三〇〇万円の金額はそのままとなし、原告に特許権者たる地位を依然保有せしめて、買取りよりは原告に有利な覚書に記載専用実施権設定の形式をとった覚書が作成せられ、原告はその記載が文字通りの内容のものであることを了解して調印したと認めるべきであるから、原告の覚書調印に意思と表示とのそごを認むべき余地はないというべきである。
原告本人は、覚書第九条の「この覚書に定めのない場合及びこの覚書に疑義を生じた場合は、信義誠実の原則に従い、甲(富士製鉄株式会社)、乙(原告)両者は協議して解決にあたる」との規定は、原告が覚書に記載の文字通り被告らに対し現実に実施権の許諾をしたものではなかった証左であるかの如き供述をするが、覚書全体の記載ならびに前記認定の覚書作成の経過に徴すると、右第九条の規定が原告本人が供述するような趣旨であるとは到底認めることができない。
第八、そうすると、本件特許権につき被告新日本製鉄は専用実施権を、その余の被告らはいずれも通常実施権を有するから、かりに被告ら実施の技術が本件特許発明の技術的範囲に属するとしても、その実施行為は本件特許権の侵害を構成しない。したがって本件特許権の侵害を前提とする原告の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大江健次郎 裁判官 近藤浩武 庵前重知)
<以下省略>